*バルトーク ヴィオラ協奏曲 (シェルイ版) (2024年4月14日 第48回定期演奏会プログラムより)

 バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤノーシュは、1881年3月25日にハンガリー王国、パーンシャーク地方のナジセントミクローシュに生まれ、ピアニスト、クラシック音楽の作曲家、民族音楽研究家として活躍しました。このヴィオラ協奏曲は晩年にヴィオラ奏者のウィリアム・プリムローズに依頼され作曲することになりました。
 1940年にナチスの脅威から身を守るため故郷のハンガリーを離れてアメリカに移住したバルトークは、もともと身体が丈夫ではなく環境にも慣れなかったためか白血病を患い、移住後わずか5年、1945年9月26日に64歳の生涯を閉じることになります。この間に、管弦楽のための協奏曲やピアノ協奏曲第3番など、4曲の作品を書いていますが、そのうちの1曲がこのヴィオラ協奏曲です。ただし最後まで残ったこの曲は草稿段階までしかできておらず、ハンガリー出身の作曲家ティボール・シェルイが引き継いで完成させました。
 バルトークはプリムローズに宛てた手紙に書いています。「オーケストレーションは、以前のヴァイオリン協奏曲よりもむしろ透明になります。また、あなたの楽器の陰鬱でより男性的な性格は、作品の一般的な性格にいくつかの影響を与えました。私が使用する最高音はA(ラ)ですが、私はかなり頻繁に低い音域を使用します。それはむしろ名手のスタイルです。おそらくいくつかの場所は、不快または演奏が難しいでしょう。それについてはあなたが譜読みした後に議論します」
 シェルイは、補筆にあたり、「原稿自体を解読するのに問題があり、作曲者のスケッチにはページが付けられておらず、楽章の順序も示されていませんでした。さらに、修正個所はそのまま削除されずに残され、継ぎ足しされていた」とたいへん困難であったことを書き残しています。初演はバルトーク没後約4年の1949年12月2日、ミネソタ大学にてプリムローズのヴィオラとアンタル・ドラティ指揮のミネアポリス交響楽団によって行われました。
 そのほかの補筆版として、作曲家の息子ペーテル・バルトークと音楽学者ネルソン・デッラマッジョーレなどによるペーテル版も1995年に作成されています。それでもシェルイ版は、ヴィオラ奏者にとって欠かせない一曲であり数多くの演奏と録音が残されています。
 第1楽章冒頭は、ヴィオラソロから始まり、不穏な低弦のピッチカートがまとわりつき、ヴィオラはそれを振り払うかのように激しく駆け降ります。木管楽器との掛け合いや金管楽器の不穏な感覚は、手紙に書かれた「陰鬱で男性的な性格」を助長するかのようです。そしてファゴットに導かれて第2楽章が始まります。弦楽器の響きに透明感を感じる美しい旋律が独特な世界観を創造し、しだいに透明感と力強さが交互に現れ、突如第3楽章へ移ります。テンポが速くなり次から次へと迫り来る音とオーケストラとの掛け合いが、まさにヴィオラの力強さを表現しているようです。

(ヴィオラ 下田 英考)

編成:独奏ヴィオラ、ピッコロ(フルート持ち替えあり)、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン3、トランペット3、トロンボーン2、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル(大、小)、弦楽器5部。

 

 


 

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