*シューベルト 交響曲第4番 ハ短調 「悲劇的」 (2023年9月17日 第47回定期演奏会プログラムより)

 ベートーヴェンはモーツァルトより14歳年下です。そのベートーヴェンよりも27年あとに、フランツ・シューベルト(1797−1828)は生まれ、ベートーヴェンの死の1年後に亡くなっています。シューベルトは、31年という短い生涯の間に、600曲を超える歌曲や10曲ほどのオペラ、多くの室内楽、それに八つの交響曲を書いています。シューベルトの父親は、現在のチェコ東部、モラヴィアの出身で、ウィーン旧市街の西北のはずれにあった小学校の校長を務めていました。彼は音楽愛好家で、自らチェロを弾き、シューベルトの二人の兄のヴァイオリン、シューベルトのヴィオラと合わせて弦楽四重奏を楽しむのが常でした。けれども、シューベルトには学校の教師になるよう求め、音楽家になることには強く反対しました。
 6歳のころから、父にヴァイオリンを、兄にピアノを習い始めたシューベルトは、すぐにその才能を発揮し、二人の手には負えなくなったため、近くの教会のオルガニストについて音楽を学びます。11歳の秋、彼は宮廷礼拝堂聖歌隊に入り、同時に帝立王立寄宿制学校に入学しました。この寄宿制学校で、シューベルトは当時宮廷楽長だったイタリア人作曲家サリエリの指導を受け、音楽的才能をさらに伸ばすことになります。学校内のオーケストラで、初めは第2ヴァイオリンを弾き、のちには指揮者も務め、親しい友人を得ることもできました。友人たちは、父親に反対されて五線紙を買う余裕もなかったシューベルトに対して、さまざまな援助を惜しみませんでした。
 声変わりをしたために聖歌隊の仕事を続けられなくなったあとも、シューベルトは特別にこの寄宿制学校に留まることを許されます。彼の交響曲の多くは、この学校の学生オーケストラや、親しい知人の私的なオーケストラによって内輪の演奏会で披露されたもので、本格的な公開演奏会で採り上げられるのは、シューベルトが亡くなって10年以上経ってからのことでした。
 数学の出来がよくなかったため、試験に落第して寄宿制学校を退学した16歳のシューベルトは、師範学校に進み、父親の仕事を手伝うようになります。ナポレオン戦争のあとの列強諸国によるウィーン会議が終わった1815年、シューベルトの創作活動は極めて盛んでした。「魔王」や「野ばら」を含む140曲の歌曲や二つの交響曲、三つのオペラが作曲されています。そしてその次の年、父親の家を出て初めて独り立ちした19歳のシューベルトが書き上げたのが、交響曲第4番「悲劇的」でした。
 第1楽章、アダージョ・モルトの序奏は、すべての楽器によるドの音の強奏に続いて、半音階的に進行します。そしてアレグロ・ヴィヴァーチェの主部では、悲壮感を漂わせた上行音形の第1主題のあと、おだやかな第2主題をヴァイオリンが奏でます。
 第2楽章はアンダンテ。ヴァイオリンが優しい歌をうたい、中間部では激情が噴き出します。
 第3楽章はメヌエット。半音階を強調したモチーフが、あたかもスケルツォのようです。
 第4楽章はアレグロ。ファゴットと低弦による導入部のあと、ヴァイオリンが息の長い揺れ動くような旋律を奏し、さらに激しい感情がほとばしります。
 なお、終生ベートーヴェンを敬愛していたシューベルトは、ウィーン中央墓地のベートーヴェンの墓の隣に眠っています。

(ヴィオラ 鈴木 克巳)

編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 2、ティンパニ、弦楽5部。

 

 


 

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