*マーラー 交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 (2019年4月14日 第42回定期演奏会 創立30周年記念演奏会その1 プログラムより)

 音楽を演奏するものにとって、特にマイクやスピーカーを使わないクラシック演奏家にとって、ホールは大事な楽器のひとつだ。19世紀後半になると、ヨーロッパの一部の上流階級だけに楽しまれていたオーケストラの演奏会は、市民に広く愛好されるようになっていく。それに伴い、多くの観客が収容できる大きな会場が必要となった。1882年、巨大スケートリンクを改築して旧ベルリン・フィルハーモニーホールが作られたのを皮切りに、大規模なホールの建設が各地で行われた。マーラーはその大きな空間を最大限に生かす響きを意識していたに違いない。日本の音楽市場でマーラー・ブームが起こったのは30年ほど前のことだと思う。ちょうどザ・シンフォニーホールやサントリーホールといったクラシック専用の大ホールが相次いで建設されていったころと重なっている。ブロカートフィルハーモニー管弦楽団創立30周年という記念の年に、すみだトリフォニーホールという素晴らしい楽器でマーラーの交響曲を演奏できることに、大きな喜びを感じる。
 グスタフ・マーラーは1860年、ユダヤ人の両親のもと、プラハとウィーンの中間にあった都市イーグラウ近郊のカリシュト村という小さな村に生まれた。同年、それまでは住居をゲットーに限定されていたユダヤ人に任意居住権が与えられると、父ベルンハルトは乳飲み子のグスタフを伴って、小都市イーグラウに移り住む。ここで酒類製造業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務め、ユダヤ人社会の有力者となりながらも、近隣のキリスト教ドイツ人とも交流を持ち、上流階級さながらの暮らしを手に入れた。
 マーラーはわずか4歳でアコーディオンを巧みに弾きこなしたという逸話がある。10歳で市立劇場での音楽会にピアニストとして出演、15歳でウィーン音楽院に入学、17歳で音楽院のピアノ演奏部門1等賞を獲得したあと作曲へと専攻を変え、作曲部門でも1等賞を取って卒業する。そして、20歳で指揮者としてのキャリアを築き始めた。
 マーラーが指揮者だったことを知っている人は多いと思うが、歴史に残る大指揮者だったことはあまり語られない。当時の録音はなく、マーラーがどんな演奏をしたのかが残っていないことも理由だろうが、なにより作曲家としての名声が高くなりすぎて、指揮者であったことが薄れてしまったのではないかと思う。反対に、生前は指揮者としての名声が高すぎて、作曲家としてはさほど注目されていなかった。交響曲第1番のブダペスト初演時には、「有能な指揮者なのだから、作曲などというお遊びはやめたほうがよい」という新聞評があがったことさえある。年を重ねるごとに指揮者として引く手あまたの存在になっていったが、作曲をやめることはなかった。1893年から亡くなる直前までずっと、シーズン中は指揮に専念し、作曲は夏の休暇の間だけ集中的に行うという生活を送った。大自然の中にぽつんと建てられた、机と椅子とピアノだけが置かれた小屋。「マーラーの作曲小屋」は今でも、ザルツブルク近郊のアッター湖畔や、南オーストリアのマイヤーニッヒ、北イタリアのトブラッハに残っている。マーラーが小屋に籠って作曲している間、恋人や家族たちは小屋の周りの静寂を保つために奔走し、作曲中の彼を訪ねるなどということは決して許されなかったという。
 1897年、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督に就任する直前、マーラーはユダヤ教からローマ・カトリックへと改宗した。反ユダヤ思想が強くなっていくヨーロッパにおいて、ユダヤ人のままでいることは、主要ポストに就くには不利だったのかもしれない。この「偽装改宗」がのちにマーラーの精神を分裂させていく原因となったという説もあるし、もともとユダヤ教には未練がなかったという説もあるし、カトリックの思想に共感するところがあったからという説もあるが、私は勝手にこう考えている。マーラーが改宗にこだわらなかったのは、宗教の違いを超えた大きな神の存在を感じていたからではないか。「曲は作るのではなく、作られるのだ」とはマーラーの言葉である。「創作とは最初から最後まで神秘的な行為だ。自分では意識できぬ、外からやってくる霊感に従って何かを作らねばならない。そのとき僕はもはや僕のものではなく、宇宙が奏でる楽器のひとつに過ぎない」。また、できあがった曲について、「我ながら不気味なところがあるが、そこを書いたのがどうしても自分ではない気がする」とも語っている。

 交響曲第1番につけられる「巨人」という副題。親近感を持ってもらえるようにと私たちも採用したが、マーラーにとっては不本意であろう。この曲は当初、全5楽章の「二部からなる交響詩」であった。マーラー自身は最初から「交響曲」と呼んでいたにもかかわらず、なぜ「交響詩」として発表されたのか、理由は定かではない。1889年のブダペスト初演は失敗に終わった。聴衆は曲の中にパロディや皮肉が混ざっていることを受容できず、おおいに混乱したのである。改訂され、ハンブルクで演奏するときに、友人たちはこの曲にタイトルを付けること勧めた。マーラーもその助言に従い、曲を理解する手助けになるようにと、「巨人」というタイトルと、各楽章の説明を与えた。ジャン・パウルの小説「巨人」から取った名だが、曲と物語の筋はなんの関係もない。小説の長大さ、複雑な重層構造、奇抜で凝った比喩、強烈な皮肉に共通点を見いだしての引用だったが、当然のことながら、理解の手助けどころか、大きな誤解を生むことになった。的外れな人々の問いかけに懲りたマーラーは、タイトルも説明も外し、ほかの劇の付随音楽から転用した第2楽章「ブルーミネ」を外し、楽器を増やし(特にホルンは4本から7本に増強された!)、全4楽章の「交響曲ニ長調」とした。本日演奏するのは、1896年にベルリンで演奏されたこの最終版である。

第1楽章 「ゆっくりと引きずるように」という表示のほかに「自然の音のように」と記されている。深い森、霧の漂う中、虫や小動物がうごめいているような幻想的な情景が目に浮かぶ。クラリネットによる郭公の鳴き声に誘われて始まる第1主題は、「さすらう若者の歌」の第2曲「朝の野原を歩けば」にもとづいている。
第2楽章 「速すぎないように、力強く活発に」。農民が足を踏みならして踊る、野性味溢れる舞曲を連想させる。ホルンが扉を開くトリオは、ゆっくりとしたウインナ・ワルツが穏やかに流れ、ふたたびホルンの呼び声で力強い舞曲が再現される。
第3楽章 「緩慢でなく、荘重に威厳をもって」。ティンパニの刻みに乗って、コントラバス、ファゴット、チェロ、テューバが次々と奏でるのは、世界中で歌われている俗謡だ。ただし、長調ではなく短調で書かれていることから、葬列にまつわるとも考えられている。重々しさを突如として打ち破るボヘミア楽士の音楽は「パロディを持って」と指示されている。これこそがマーラーの音楽の特徴「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」であり、当時の人に受け入れられなかった所以でもある。
第4楽章 「嵐のように荒々しく」。稲妻のような激烈な始まり。ブダペスト初演の4日後に雑誌に載ったカリカチュアを見れば、人々がどれほど度肝を抜かれたかわかるだろう。最終楽章では、絶大なる自然の力、過酷な運命、苦しみを乗り越え打ち勝とうとするモティーフが繰り広げられる。最後のクライマックスでは、ホルン7本、5番トランペット、4番トロンボーンが指示通りに立奏し、勇壮な行進曲を歌い上げる。

 ブダペストの雑誌に載ったカリカチュア



(ホルン 吉川深雪)

編成:フルート 4(ピッコロ 2)、オーボエ 4(コールアングレ 1)、クラリネット 4(Esクラリネット 2、バスクラリネット 1)、ファゴット 3(コントラファゴット 1)、ホルン 7、トランペット 5、トロンボーン 4、テューバ 1、ティンパニ 2、バスドラム 1、シンバル 1、トライアングル 1、タムタム 1、ハープ 1、弦楽5部。

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/