*チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調 (2015年9月13日 第35回定期演奏会プログラムより)

 「私はいつもしゃべりたいことがあるので、それを音楽という言語の中でしゃべっているのです」。チャイコフスキーが書いた手紙の一節である。
  ピョートル・チャイコフスキー(1840–1893)は、ウラル地方ヴォトキンスクで生まれた。特に音楽好きな両親ではなかったが、経済的にゆとりがあった一家の居間には、ピアノのほかに、手回しオルガンのような自動演奏装置「オーケストリオン」が置かれていた。この機械が演奏した管弦楽曲の数々は、幼少のチャイコフスキーに大きな影響を与えたようだ。音楽に対する並外れた興味を示し、ピアノを弾くと過剰に興奮してしまうため、家庭教師は「音楽は彼にとって害悪なもの」と考えたほどだったが、両親は音楽に熱中する息子のためにピアノ教師を雇い、オペラやバレエにも連れて行った。チャイコフスキーが最初に感動を覚えたオペラは、グリンカの「イワン・スサーニン」だったという。しかし、我が子を職業音楽家にしようなどという考えはまったくなく、役人の道を進ませた。当人の抵抗は受け入れられず、10歳で法律学校の寄宿生となり、19歳で法務省に勤務している。22歳のとき、彼は突如として、設立されたばかりのペテルブルク音楽院に入学した。仕事と並行しながら音楽の基礎を学び、4年後には法務省を辞職し、敢然と音楽に向き合う。作曲家として、やっとスタートを切ったのである。それ以降、作曲は彼にとって何よりも重要なこととなった。
  チャイコフスキーは広大なロシアの自然をこよなく愛しながら、旅にもよく出かけた。1877年、支援者のフォン・メック夫人から年金が給付されることになり、生活費の心配がなくなった彼は、長い旅に出る。ヨーロッパ各地を転々とする間、大作こそ書かなかったものの、精力的に創作を続けている。1885年にモスクワ近郊に家を構えてからも、頻繁にヨーロッパ諸国を、ときにはアメリカを訪れた。これらの旅が作曲家に与えた影響は計り知れない。後期の作風を「西欧かぶれ」と非難する者もいたが、その一方で、のちの大作曲家ストラヴィンスキーが「彼は私たち(ロシア人作曲家)みんなの中でもっともロシア的だ」と語っていることは興味深い。
  もうひとつ、よく耳にするのは「チャイコフスキーの音楽は感情的すぎて規律がない」という批判かもしれない。そして、それを誰より自覚していたのは作曲家自身だった。兄弟の中で人一倍「陶磁器のように繊細で感じやすい子供」だったチャイコフスキーは、生涯を通じて神経症の発作や鬱状態に悩まされている。生来の気質に加え、幼くして家族のもとを離れたこと、14歳で最愛の母を亡くしたこと、役人として生きることなどが拍車をかけたのかもしれない。精神からくる身体の不調に苦しみ、心のうちを人にさらけ出すことができなかった彼にとって、音楽こそが言葉だった。想像力や発想はある。とてつもない霊感が降りてくることもある。しかし、それらを作品にふさわしい形式にまとめられず、模索し続けた。胸の奥から溢れ出る想いを音楽の中に閉じ込める……。そのために持てる力のすべてを注ぎ込むことは、自らの魂を救済する行為でもあった。
  交響曲第5番は1888年に作曲され、同年、ペテルブルクで自身の指揮によって初演された。「序奏は交響曲全体の種子」とは作曲家の言葉だが、第1楽章の始まりは、深く重く、実に印象的だ。第2楽章の哀しいまでに美しい旋律、スケルツォの代わりにワルツを用いた第3楽章にチャイコフスキーの独創性が光る。そして終楽章、序奏が今度は長調となって現れる。弦合奏によって奏でられる旋律は、穏やかだが、ロシアの大地を踏みしめるような確かな足取りだ。コーダにおいて「種子」は見事なまでの艶やかな花を咲かせ、高らかに終結する。

(ホルン 吉川 深雪)

楽器編成 フルート 2、ピッコロ1、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 3、トロンボーン 3、テューバ 1、ティンパニ 1、弦楽5部。

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/