*シューマン 交響曲第3番 変ホ長調 作品97 「ライン」(2013年2月11日 第31回定期演奏会プログラムより)

 父なる川「ライン」。スイスアルプスのトーマ湖を源流とするライン川は、やがてドイツ国内に入り、ローレライの岩山の下を、コブレンツ、ボン、ケルン、デュッセルドルフの街を流れ、オランダから北海へと注いでいる。全長1233kmのうち、ドイツを流れるのは698km(日本で一番長い信濃川は全長367km)。外国船が自由に航行する国際河川の一つであり、河畔の風光明媚さでも知られている。
 ドイツ・ロマン派音楽を代表する作曲家ロベルト・シューマン(1810−1856)は、25歳のときに、ピアノの師匠ヴィークの次女クララと恋に落ちた。このことを知ったヴィークは激怒する。16歳のクララはすでに天才ピアニストとして世界を席巻していた。オーストリア皇帝から、外国人女性としては異例の「王室皇室内楽奏者」の称号を与えられ、ドイツマルク時代の100マルク紙幣にその肖像画が使われていたことからも、彼女がいかに希有な存在だったかが伺い知れる。駆け出しの作曲家だったシューマンとは、あまりにも社会的地位が違ったのである。紛争は裁判にまで発展し、シューマンの勝訴によって法的に結婚が認められたものの、ヴィークとの和解には8年の歳月がかかっている。
 愛を成就させたシューマンは、クララの協力のもと、次々と音楽を創り上げていった。作曲のほか、自身が編集長を務める音楽専門誌「音楽新報」での執筆活動、メンデルスゾーンが院長を務める「ライプツィヒ音楽院」での教育活動などを通し、少しずつ名声を高めていく。1850年9月、シューマンはデュッセルドルフの音楽監督に就任した。これは、シューマンにとって人生で唯一の公的なポストとなる。ドイツ西部、ライン川ほとりのデュッセルドルフは、田園風の土地でありながら、画家や音楽家たちが自由に活動する、活気溢れる芸術の街だった。シューマンはその街に歓喜をもって迎えられたのである。就任早々の10月にチェロ協奏曲、12月に交響曲第3番「ライン」と、規模の大きな管弦楽曲を立て続けに完成させたことは、シューマンが希望に満ちていた証であろう。
「ライン」という表題はシューマンが付けたものではないが、明るく美しいライン川の風景から、多くのインスピレーションを受けたのではないだろうか。執筆中、ケルン大聖堂で枢機卿の叙階式が行われたという知らせを受け、第4楽章が追加され、5楽章からなる交響曲が完成した。雄大なラインの流れを感じさせる第1楽章。田園風景の中でのどかに踊られる第2楽章。川のほとりで交わされる恋人同士の語らいのような第3楽章。自筆譜に「荘厳な儀式の性格で」と記される第4楽章。カーニヴァルのごとく華やかな第5楽章。生命力がほとばしるような交響曲だ。
 しかし、希望の日々は長く続かない。オーケストラとも合唱団とも次第に軋轢が増し、神経性の持病も悪化して、1854年、シューマンは発作的にライン川に身を投げる。このときは未遂に終わるが、その後、ボンの精神療養所に入院し、1856年に帰らぬ人となった。
 デュッセルドルフはシューマンにとって不吉な場所だったのだろうか。いや、そうではあるまい。音楽監督としての職務に追われ、持病と闘いながらも、全作品中の三分の一がここデュッセルドルフで生まれているのだ。まだ若きブラームスが初めてシューマンを訪ねたのも、この地である。ブラームスの才能に感銘を受けたシューマンは道を拓く手助けをし、ブラームスもシューマンに深い敬愛の念を抱いた。ブラームスに限らず、シューマンがその音楽作品と論文で音楽界に与えた影響は計り知れない。
 そして今日、私たちは喜びとともに交響曲第3番「ライン」を演奏する。シューマンから湧き出でた「ライン」は、これからも脈々と流れ続けていくだろう。

(ホルン 吉川 深雪)

編成:フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 2、トロンボーン 3、ティンパニ、弦楽5部。

 

 


 

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