対談
ブロカートフィル誕生のころ

ヴァイオリン 白井 詩織
ホルン 五十嵐 尚之
(2009年9月21日 創立20周年記念コンサート2 第24回定期演奏会プログラムより)

 

五十嵐尚之 卒業してからも気心の知れた仲間と一緒にオーケストラ活動を続けたい。そんな思いから東京電機大学のOB管弦楽団を作ろうという話がまとまったのは、1989年のことです。じつは、その4年ほど前、ぼくが現役のとき、演奏会にOBの人にもたくさん出演してもらおうという気運が高まりました。それで、すでに楽器から離れていた人も含めて、片っ端から声をかけた。ヴィオラでさえ数名、全パートで10数名が集まった。それがきっかけになったのだと思います。

白井詩織 でも東京電機大学は単科大学ですから、全体の人数が少ないですよね。

五十嵐 現役オーケストラの団員も30人くらいしかいませんでした。卒業すると地方へ行く人もあり、東京で集まれる人は限られています。OB管弦楽団結成当時の人数は20人以下でした。もともと現役もヴィオラはゼロに近いし、弦はことに少なかったですね。設立当時は、とても演奏会ができる状態ではなかったんです。でも、演奏会をすることが決まると、奈良に住んでいるのに、月に2回の練習に、ほとんど欠かさず参加するほど熱心な人もいました。

白井 茨城県の潮来からも、名古屋からも、長野からも来ている人がいましたね。

五十嵐 当時の中心メンバーは管楽器の人でした。弦楽器は入学してから始める人がほとんどなので、卒業するとやめてしまう人も多かった。いまコンサートマスターをしている小野口さんは、結成のときには学生でした。指揮は、ぼくが3年生のときから現役オーケストラを振っていた家田厚志さんに、お願いしました。初演奏の披露は、設立から2年後の現役との合同演奏会。ベートーヴェンの「運命」でした。当時の団長が根っからのベートーヴェン好きで、全部の交響曲を演奏したいと常日ごろいっている人でしたから。現役がドヴォルザークの「新世界」、合同でヴァーグナーの楽劇「マイスタージンガー」前奏曲を演奏しました。もちろん現役とOBの双方で、足りない人数を融通し合ったんです。

 
みんな仲がいいのが特徴

白井 初めての単独の演奏会は、その明くる年、1992年の1月でしたね。

五十嵐 オペラに造詣の深い家田さんの発案で「カルメン」の抜粋を取り上げました。練習はたいへんでしたね。5月から1月まで土曜の夜、阿佐ヶ谷の練習場に集まりました。狭くて、ドラムセットが置いてあるような変な部屋でした。

白井 メンバーも少なかったですよね。

五十嵐 パートも揃っていなくて、歯抜けだらけ。狭い部屋にも入りきれるような人数でした。同窓会気分で、飲みに行くのが目的みたいにして練習に来る人もいました。

白井 「カルメン」のときに配布したプログラムがおかしいんですよね。

五十嵐 そう、第1回とも、定期演奏会とも、どこにも印刷されていないんです。みんな、第2回なんてものがあるかどうか、わからないと思っていましたからね。

白井 でもその次は……。

五十嵐 2回目のプログラムには、第2回定期演奏会って、ちゃんと印刷してありますよ。

白井 先の見通しがついたのでしょうかね。

五十嵐 でも、次の第3回だったかな。家田先生が、北京のオーケストラでマーラーの交響曲第9番を指揮することに決まていて、ぼくらにも同じ曲を演奏してほしいとおっしゃる。逆立ちしてもできっこないので、ご縁がなかったことにしてくださいとお断りました。

白井 いやそれは第4回のときのことでしょう。

五十嵐 ともあれ、そういうことがあって、指揮者が変わりました。当時は、クラリネットのメンバーの一人が、「ホール代を負担するから、モーツァルトのクラリネット協奏曲を吹かせてほしい」と提案するなんてこともあった。「はいはい、お金を出してくれるのでしたら1曲さし上げます」ということで話がまとまりましたけどね。いかにもOBオーケストラらしい、いい加減さといいましょうか。

白井 そのあと、指揮を引き継いだのが鎌田由紀夫先生。

五十嵐 1995年から2002年まで、長いあいだ指導してくださいましたね。とっても熱い先生でした。去年、惜しくも亡くなられましたが。鎌田先生のころから、開かれたオーケストラというか、電機大の卒業生以外の人も入団してくるようになったんですね。

白井 でも、発足したときから、現役オケのエキストラに来ていた電大生以外の人もOBオーケストラの団員になっています。エキストラの方とはいつも和気あいあいという感じでした。OBと現役も、みんな仲がいいのが電大の特徴で、現役時代には、先輩がよく飲みに連れて行ってくれましたし、練習にもたくさん来てくれて、演奏会に乗ってくれるのも当たり前でした。団員同士、OBと現役生とで結婚に発展するというケースも多かったですね。

 
夏休み、突然の電話で

五十嵐 ただ、OBオーケストラができてからある程度年月が経つと、古い先輩といっしょに演奏しにくいこともあるのか、卒業してもOBオーケストラに入団するとは限らなくなった。一時は、どんどん人数が減って行って寂しかった。

白井 ブルックナーの第5番を取り上げた2001年、第11回定期演奏会のころがいちばん少なかったですね。ヴァイオリンはファースト4人、セカンド5人、合わせて9人しかいなかった。ヴィオラは1人だけ。

五十嵐 でもそのメンバーは、今でも在籍している人ばかりですね。コアメンバーかな。当時、ホルンは7人もいました。でも数が多いだけで、出てくる音は悲惨だった。アンケートに書かれたことがあります。「電通大と間違えて来ました。せっかくなので帰らずに最後まで聴きましたけれど、ひどい演奏でした」。ガーン。

白井 それで立て直そうと……。

五十嵐 いや、そんなこと、なかったですね。だってその次の第12回定期演奏会が、ブラームスの第3番とラフマニノフの第2番という超難曲ですもの。もちろん、めっためたでした。懲りてないんです。選曲は完全投票制で、得票数が上位の曲でプログラムを組みました。

白井 自分たちが演奏したい曲を演奏して楽しむだけ、という感じでしたね。人気のある曲がよく選ばれました。曲が決まると、鎌田先生はいつも「はい、いいですよ」って。だめだってことは一言もいわない先生でした。

五十嵐 鎌田先生は、もともとヴァイオリン奏者で、吹奏楽の指導もいろいろなさっていた方でした。自分のスタイルが決まっていらっしゃって、オーケストラによって指導法を変えるということはなかったように思います。練習は、通して合奏することが中心でした。今のように分奏をきめ細かく行うということはありませんでしたね。

白井 金管楽器のトレーナーとして、吉川先生が初めてブロカートにいらしたのは、1998年の第8回定期演奏会のときでしたか。当時団長をしていた人の高校の同級生というご縁でした。その後は、合宿にもいらしたりしていて、弦のメンバーも指導を受けたことがあります。チャイコフスキーの交響曲第3番「ポーランド」やモーツァルトの交響曲第25番の練習で合奏を指揮してくれたこともありました。

五十嵐 それから4年後の2002年の夏休み、千葉の実家にいたぼくのところに、吉川先生から突然電話がかかってきました。明日の晩、新宿で会えませんか、というんです。お会いしてみると、熱い話でした。――理想のアマチュアオーケストラって何ですか。何のためにやっていますか。何を目指しているんですか。同じ時、同じ音程、同じリズム、同じ思い、ひとつでも共有できるものを増やしたい。飲みながら、そんな話をしました。

白井 そのころは、たまたま鎌田先生に改善を提案しようとしていた時期でしたね。

五十嵐 吉川先生も、それまでいくつものアマチュアオーケストラを指導してきて、疑問を感じていた時だったんです。トレーナーとしての指導の内容が指揮者と食い違ったり、演奏会の後、団員から「まあこんなもんでしょう」と言われて空しさを感じたりしたこともあったそうです。新宿で会ったあと、オーケストラの中心的なメンバーたちと吉川先生とで何度も会合を重ねて、いろいろなことを話し合いました。どういうオーケストラを目指すか。どういう人をトレーナーに呼んでくるか、などということをね。

 
ぜひ「フィルハーモニー」を

五十嵐 そして2002年の秋の演奏会のあと、総会を開いて、指導者の交代を議論しました。提案に対して、初めはみんなシーンと黙っていました。そのとき、団員のひとりが発言しました。「断る理由はないでしょう。こんなにありがたい話はないんですから」。それで、空気がダアーッと変わったんです。

白井 それで決まったんでしたね。吉川先生は、それまで指導していたアマチュアオーケストラをすべてやめて、うちだけに専念してくださった。

五十嵐 初めての練習は、その年の12月3日、東大島文化センターでした。それからは練習の内容が激変しました。3年後、5年後の姿を意識した指導といっていいと思います。ぼくたちにも、目指すところがだんだん見えてきた。

白井 ヴァイオリンをはじめ、それぞれのパートのトレーナーを、N響から4人も呼んできてくださった。分奏の回数も増え、中身もすごく濃くなりました。自分の技術が向上するのもわかるし、みんなで一緒に上手になったという連帯感もできる。それで余計に楽しくなりました。

五十嵐 吉川先生が最初からおっしゃっているのは、「休んでいい練習はありません」ということです。全員が全部の練習に出てきてほしい、ということですよね。100%団員で、すべての演奏会に一人も欠けないのが理想ともおっしゃっています。

白井 それから、こんなことも。――団員を増やしましょう。エキストラをお願いしなくても演奏会ができるフルオーケストラを目指しましょう。団員を倍にすれば解決することは山ほどある、って。団員の数は、第11回定期の時が41人。第13回が45人、いまは70人くらいですね。

五十嵐 アマチュアなので、仕事のために練習を休むことがあるのは仕方がない。でも休んだ時の練習の内容を知らないで、次の練習に来るというのは避けてほしい。そういう考えから、吉川先生の発案で、練習の録音を毎回団員に公開するようにしたんです。休まなかった人も、あとで冷静な立場で聴くことができますから。

白井 ところで、ブロカートという名前に改称したのは……。

五十嵐 団内で公募して、2003年の総会で決めたんです。ぼくはその日、ちょうど出席できなかったのですけれど、ぜひフィルハーモニーという言葉を入れてくれるよう頼んでおきました。人と人との和、調和ということが、オーケストラにはいちばん大切ですからね。

 
(編集 鈴木 克巳)

 

 

 

 

 

 


 

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ブロカートフィルハーモニー管弦楽団 http://www.brokat.jp/